親を見下そう - 1. 背景

概要

内容

私が親から受けたストレスの話です。

これは、背景編です。長いので、飛ばして分析編をお読み頂いて構いません。

想定読者

  • 自分に批判的な思考ができる方
    • できない方も、そう思うでしょうけれど。

注意

  • ブログ初めてです
  • 楽しい話ではないです
    • 様々な恨み言を含みます
    • 未遂の話があります
    • 何かによりかかることができないとき、読まないでください
  • 本筋をそれた備忘録が長いです
  • かなり人を見下しています
    • こんな人もいるんだな、と思って眺めてやってください
  • 被害者面で一方的に非難しています
  • 読みたくなくなったら、直ちにやめましょう

背景

重要な要素が1つ抜けているのですが、大きなストレスの存在を念頭に置いてください。質はそれほど重要ではないので。

今の私

  • Syttrea
  • 大学生
    • 休学中
    • 4月から戻るつもり
  • 一人暮らし
  • 適応障害
  • 他の情報を明かす決心ができません

高校生まで

実家で、両親、弟、祖母と暮らしていました。

学校と塾

小学校は公立で、中学受験をして私立の中高一貫に6年間いました。名目上。 中学に入ると同時に、某会にも入りました。

不登校

中学校に入って1ヶ月と少し過ぎた頃、学校に行けなくなりました。起立性調整障害の診断を受け、1年以上お布団と仲良くしていました。要因は2つ考えられました。

  • 身体的な要因

    • このときの両親は、とりあえずこれが原因だと納得していました。
    • 何度も検査を受けましたが、内臓の病気の類ではありませんでした。
    • 寄与が0であったとは言えませんが、後から考えると小さかったはずです。
  • 精神的な要因

    • 環境の変化がきっかけとなったのは、間違いありません。
    • 某会から夜遅くに帰り、耐えられなくて泣いた記憶があります。壊れてしまったのでした。
    • しかし、両親は「変化には慣れるもの」と思っていました。

どちらの要因も、なかなか治らない理由を欠きました。両親は、「やる気がないだけなのだ」と言い始めます。そういうことです。

ちなみに、私はこのとき、なぜ学校に行く必要があるのかと考えていました。双方とも、本質的な原因には思い至らなかったわけです。

精神的負荷の持続

ただ飯食らいで、学費を払っている学校に行かない私は、当然日増しに圧力に曝されます。1日も早く学校に行け、行けるように努力しろ、と。

これは正しいです。後述しますが、正しすぎたのでした。

ところで、私は、学校に行けない理由を、「頭痛と立ち眩み」と主張していました。これは、一般的に低血圧の症状ですし、実際、血圧は低めでした。貧血対策で改善すると思われたので、鉄・水・塩・たんぱく質・運動が必要でした。

さて、このときから、たっぷり7年間続く、嫌なルーチンができてしまいました。母親が仕事から帰ってくると、学校に行ったか、運動はしたか、報告しなくてはなりません。これは毎日大変な苦痛でした。なぜなら、「行っていない」ということがわかると、たちまち母親の機嫌が悪くなり、八つ当たりが始まるためです。物に当たりますし、他の家族にも当たります。何も嬉しいことはありません。まだトラウマです。

追い詰められて、いろんなことを考えました。中2のとき、4歳下の弟に、「親の愛情って、投資であって、私には払い戻しが期待できないから怒るのではないか」と演説をした記憶があります。

辛くなると、自分のことは徐々にどうでもよくなるものです。生きる意味がわからなくなり、他人の利益のために生きるようになりました。ここでは、とりあえず弟が同様の目に会うことを避けたかったのでした。弟は何にも覚えてないらしいですが。

改善(?)

中3になると、遅刻や欠席は多いものの、ほとんどの授業に出られるようになりました。学校に行きたくなった、というほどではないのですが、勉強も部活も概ね楽しく、行かない理由がないのです。そこで、好きな人に会いに行くことをノルマとして自分に課しました。行くか行かないかの判断を、無理矢理回避したのです。これはうまくいきました。ただ、ある意味で自分を洗脳しているわけで、真の問題解決からはむしろ離れてしまいました。

自分の価値がわからないので、趣味のプログラミングにどんどんのめり込んでいきました。全然楽しくないのに、「これを完成させられなかったら、自分の価値はないのでは」と思って、いつの間にか義務になっていました。

他人本位の考えは、徐々に深まっていきました。部活では、自分の活動をよそに、後輩の活動に首を突っ込んで、役に立てないか監視していました。怖い人だったと思います。将来生きていくイメージも湧かず、好きな人の利益になれればいい、後は野となれ山となれ、と本気で思っていました。仮に今、このときの自分と会話しても、理解しあえないはずです。

再発

高2の終わり、部活を引退して、中1のときとは別の塾に入りました。幸い、授業で問題を解くのは楽しかったです。とはいえ、前述の理由から、プログラミングをやめられず、学校の負荷も合わせて、頭を常に回転させていました。睡眠時間を削ってやっているので、回復できません。学校の遅刻が増え始めました。

この時期プログラミングをやっていることは、部活の人々にしか言っていませんでした。「やめろ」という正論が、容易に予測できたからです。プログラミングと勉強の世界を往復することで、将来を考えないようにしていることは、このころには薄く自覚していました。

高3の5月には、また学校に行けなくなり、卒業まで行ったり行かなかったりでした。塾は夕方なので、ほぼ行きました。

受験とその後

朝起きられないのに、一次も二次も試験は朝からです。共通テストはタクシーで行き、二次試験は近くのホテルに泊まりました。現役で受かったので、このあたりの出費は許されました。

ところで、この二次試験は2022/2/25-26でした。試験には集中できましたが、戦争のニュースを見て、やるせなさが募りました。

受験後、後期も受けないので、家でだらだらとニュースを見て過ごしていました。中学受験の経験から、受験後に気を抜くと、4月から授業に遅れる恐れがありました。少しでも勉強することで、ストレスから逃げていた面もあります。

ただ、楽しくもないプログラミングに戻る気はさすがに起きず、代わりにグラフ理論や暗号理論の勉強をしていました。

大学

2022年4月に、理二から入学しました。

進振り

楽しくなかったとはいえ、私はプログラミングに向いていました。これまでに身に付けた技術や知識を活かして、就職できそうだとも思っていました。どうせ何をしても楽しくないのですから、向いていることを仕事にすべきでしょう。つまり、進路は主に情報系を考えました。ここに、入学前にやっていたことが重なりました。情報系か数学科へ行って、計算可能性理論や、計算複雑性理論を学ぼうと思いました。現役で受かった勢いが、この野望を支えていました。

Sセメ

2ヶ月は、なんとか食らいついたつもりです。とはいえ、月曜1限など、徐々に欠席は増えていきましたが。

理解できないことが多すぎました。物理などは教授が悪かったそうですが、それ以外の授業もです。まともについていけたのは二外だけで、後は家で夜遅くまで勉強しなくてはいけませんでした。見覚えのある状況です。つまり、6月になって、限界を迎えてしまったのでした。試験も行けず、S1を中心に数単位だけ取りました。

前述のルーチンはまだ続いていました。つまり、大学に行かなければ、母親の機嫌をそこねるのでした。冗談ではなく、殺意が少し湧きました。救いがあったとすれば、父親の態度が変わり、行かなくても何も言わなくなったことでしょうか。

夏休み

絶望していました。改善する見込みなど、何一つありませんでした。現実逃避するほかありません。

さしあたって、自信を完璧に失っていて、何もできないため、何か成果を得なければなりませんでした。大学の授業で扱っていたことは、触る気になれません。そこで、グラフ理論のちゃんとした本を買ってきて、ハミルトン閉路問題からP=NPを証明しようとしました。はっきりいって、もうまともな判断ではありません。どうせ何をしてもまず成功しないのだから、期待値を大きくするには、賭け金を増やすしかないと思っていました。

夏休み中これに費やして、ほとんど進みませんでした。そりゃそうでしょう。

Aセメ

二外だけ行って、後はグラフをぐしゃぐしゃしていました。素因数分解をO(N6)くらいでやろうとしました。だめでした。

ストレスは増大する一方で、本当にどうしようもありませんでした。この頃には、母親の言動が、明確に受け入れがたくなってきました。でも、寝ている私が、働いている母親に何か言えたでしょうか。

母親は、まだ「運動が足りない」などとほざいていました。思い返してみても、全くわかりません。なぜそんな発言をできたのか、私がそれに耐えたのか。

冬が来て、明確に鬱になりました。2023年の1月は、ほとんど希死念慮でした。感覚が麻痺して、終わりのない暗い思考の海にいました。

2023年 2,3月

Aセメが終わり、ほんの少しだけ楽になりました。他の人が勉強しているのに、自分は何もしていないのが辛かったのでしょう。

正直、このあたりの記憶は曖昧ですが、ひたすら病んでいました。2月中には、適応障害の診断書をもらって、休学の手続きをしたみたいです。二重思考をしていたのでしょう。3月には死ぬつもりでした。休学を決めて、楽になった記憶もないです。

3月の間は、「つらい」と思っても無駄なので、できることを楽しもうとしました。楽しめるわけがないのですけど。

3月末に、好きな人に振られて、未遂しました。もちろん未遂しようと思ったのではなく、遂行しようと思ってです。結果的に失敗しました。たぶん。今何か書いているので。

2023年 4月

3月末にあまりにも大きなことがあったためか、心に余裕が生まれました。できることを試して、だめだったらまた遂行しちゃえばよいのです。

自分をひっくり返して、全部見てみました。何が悪く、改善可能なのか、調べました。

感情は3月に置いてきたので、尽く考えました。鬱の本をたくさん読みました。

そこで、問題を2つにわけることができました。

  1. 人生がつらすぎる
  2. 生きるモチベがない

(1)は、とりあえず3月に置いたままです。感情を取り戻すには、モチベを予め用意しなくてはなりません。でないと遂行一直線です。(2)を深く考えるときです。人はなんのために生きるのか。 私の両親はプロテスタントで、私も昔は教会に行っていたため、聖書を読んで、父親と話しました。 (布教は始まりませんから、安心してお読みください)

聖書は、現代から見ると、欠点だらけの書物です。一字一句従うわけにはいきません。でも、聖書は明らかに比喩だらけです。具体例ではなく、背景にある抽象的な考えが重要なのです。聖書記者たちが世界に何をもたらしたかったのか、考えました。考えて、少しわかったような気もしますが、本当かどうかはわかりません。当人たちはとっくに死んでいるので、確かめる術はありません。

わかったことは、聖書記者はおそらく賢かったのだ、ということです。私にとって、神の有無はどうでもよくて、聖書のような書物を書ける知性がいたのが重要です。

私の生きるモチベは、思考して、人と話すことだったのです。

これは、鬱の只中でも、唯一まともにできることでした。今すぐ遂行してもいいのにしないのは、多少なりともモチベがあったからだったのです。これがわかって、悟りを得た気分になりました。

人生がつらいのは、この時点では8割方母親のせいでした。

2023年 5,6月

「悟った」からといって、問題がすべて消えてくれるわけではありません。母親とどう向き合うか、考えました。簡単な問題ではありません。

まず、以下のことから、このまま耐えるのは無理でした。

  • 母親の声を聞くだけで感情が消える
  • 母親に殺される夢を毎週見る
  • 近くにいられず、度々家の外に逃げ出す
  • 母親は、「もう言わない」と約束した1週間後には攻撃してくる
    • 後述しますが、他にも多々問題がありました。

とはいえ、家にいなくてはならない理由もありました。

  • 収入も貯金もなく、実家に頼らざるを得ない
  • 人と会話するのがモチベなので、家族と離れられない

このジレンマを抱えて、3ヶ月ほど母親との対話を試みました。

結果は、何も変わりませんでした。

2023年 7,8月

他にも失敗したことがあり、自信を失っていました。このままでは何もできなくなってしまうという危機感がありました。多少の無理をしてでも、状況を変えなくては、と思いました。

自信は成果から生まれるものですが、寝ていても成果は出ません。1年前の雲を掴むような研究を続けても、同じことでしょう。そこで、プログラミングに戻ってきました。

具体的には、バイトを始めました。インターンで雇ってくれるところがあるんです。 私はずっと1人で、誰にも使われないものを作っていたので、製品開発で新しい知識をたくさん吸収できました。インターンの作業なので、思っていたほど達成感はありませんでしたが。 会社の人たちは、いい人でした。高校の部活以来、プログラミングの話をする相手がいなかったので、とても楽しかったです。

そして、家にいるのは、いよいよ無理になってきました。給料があるのをいいことに、ネカフェに逃げ込んで、そのまま会社に行ったりしていました。お風呂だけ家で入っていました。

2023年 9月

父親に相談して、母親は適当に言いくるめて、一人暮らしを始めました。 電気もないうちから、街灯と自然風で寝泊まりして、ちょっと面白い体験でした。

母親がいない家は、本当に快適でした。母親に監視されているのではないか、今にも部屋の中に現れるのではないか、という恐怖は植え付けられているものの、今ではほとんど意識せずに済んでいます。

家事を全部自分でやるので、身体的には実家より疲れるようになりましたが、母親から解放されたので、気にするほどのことではありませんでした。

2023年 10月以降

動物は、天敵がいれば素早く動きます。 私も、母親がいるところでは、すごく緊張します。

引っ越して何が起こったか、気が抜けてしまったのです。思えば、仕事も引っ越しも上手くいき、このまま全てよくなっていく、と思い込んでいました。そんなはずはありません。実家で眠れなかった分、慢性的に疲れていました。それに、鬱で引きこもっていた人間が急に毎日出社するなど、やってはならなかったのです。

中学も、高校も、大学も、仕事も、同じように行けなくなりました。 学校と違うのは、職場の人に、直接迷惑がかかることでした。一日休むと、次の日会いたくなくなります。2日休めば、どうやって謝ったらいいのかわからなくなります。

こうして、ちゃんと挨拶もしないまま、退職しました。 自信はズタボロになって、それからずっと寝ています。

母親と会うことはもうほとんどないため、つらさは減りました。でも、他の人とも会わないので、モチベもありません。薄氷に春が来て、感情が動き出したらどうなるのでしょうか。

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背景というか、自己紹介というか、でした。 あまりにも長いので、分割します。